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​環境

展示写真は、マレーシア半島部のタマン・ヌガラ自然公園一帯で撮影されました。

1957年のマレーシア半島部独立の数年前より、政府は奥地を利用していた人びと(オラン・アスリ)に対して保留地を設立してきました。これらの保留地は後に「村」と呼ばれるようになります。

 

タマン・ヌガラ自然公園とその周辺を利用していたバテッやスマッ・ブリに対しては、スンガイ・アリン(Sungai Aring)、クアラ・コ(Kuala Koh)、スンガイ・ブルア(Sungai Berua)といった保留地が設立されました。そのうち、クアラ・コとスンガイ・ブルアの周辺で撮影されたのが展示写真になります。

マレー語でスンガイ(sungai)は川、クアラ(kuala)は川の合流点を意味します。マレーシアの首都「クアラ・ルンプール」の「クアラ」と同じですが、マレーシアには川の名前を使った地名が多くあり、社会と川の結びつきの強さを現在でもううかがい知ることができます。

​環境の変化とバテッ, スマッ・ブリ

​バテッとスマッ・ブリの暮らす環境は大きく変化してきました。

​現在

​星印がクアラ・コ村とスンガイ・ブルア村の位置です。

 

現在これらのオラン・アスリ村はアブラヤシ・プランテーションに囲まれ、車でアクセスできます。こうした環境は、マレーシア独立後に急速に進んだ開発をへて形成されました。

​植民地時代初期

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20世紀初頭までマレーシア半島部の大部分は森林におおわれ、人びとは河川を交通網として利用していました。しかし植民地支配の進行とともに鉄道がひかれてゴムプランテーションが拡大しました。その一方、植民地行政官の間で自然保護思想が高まり野生生物保護区がつくられました。

その後この保護区は、宗主国であるイギリスのジョージ5世にちなんでジョージ5世国立公園と命名されました。これがタマン・ヌガラ自然公園(Taman Negara)の始まりです。なおTaman Negaraは、Tamanが公園、Negaraが国を意味することから「国立公園」と記されることがありますが、実際には3つの州立公園よりなる保護区です。

非常事態宣言期

第二次世界大戦終了後、イギリスは統治を再開しようとしましたが大きな反対にあい、ゲリラ活動が勃発しました。そこで1948年、政府は非常事態を宣言し武力を用いて治安維持を図りました。

そして​森林部に潜伏するゲリラ部隊を撲滅するため、奥地に暮らす人びとを政府の管理しやすい地域に集団移住させました。この時、バテッやスマッ・ブリが交易したりしていたマレー農民も下流へと集団移住し、彼らはそれまでマレー農民が使っていた区域も含め、より広域を利用するようになりました。

 

しかし、交易相手のいない生活は資源を求めて頻繁に移動しなければならない苦しいものだったそうです。

​独立後開発時代

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1957年にマレーシア半島部が独立すると、経済発展を目的に開発プロジェクトが実施されるようになりました。バテッやスマッ・ブリの利用していた場所も含め、伐採道が奥地にまでのび、丸太が切り出されて森が開拓されていきました。

政府はバテッやスマッ・ブリに保留地をつくり、そこに留まることを求めましたが、彼らは河川や森の小道だけでなく伐採道も使いながら移動してました。​

 

けれど、丸太の切り出しが進められていた森がアブラヤシ・プランテーションに開拓され、彼らが移動に使っていた河川域が水力発電用ダム湖になると、彼らが資源を得られる場所は縮小していきました。

​そして現在

プランテーションが拡大した現在、バテッとスマッ・ブリはタマン・ヌガラ自然公園の森を利用しつつ、移動をともなう暮らしを続けています。政府がつくった保留地は村と呼ばれるようになり立派な家屋も提供されましたが、彼らは常にそこに留まっているわけではありません。

車やバイク、ボートは現在の暮らしにおいて重要な乗り物ですが、筏ももちろん活用しています。彼らは雨期が明けると家族で上流の森や湖の小島へ移動して花を楽しみ、7~8月には様々なフルーツを食べます。また森林資源を売って現金を得て、コメや衣類だけでなくスマートフォンも購入し使いこなしています。

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